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【オススメ度数★★★★★】パラサイト 半地下の家族 ポン・ジュノ監督が照らしたアジア映画の未来

監督:ポン・ジュノ 脚本:ポン・ジュノ/ハン・ジンウォン 製作:クァク・シネ/ムン・ヤングォン/ポン・ジュノ/チャン・ヨンファン 出演者:ソン・ガンホ/イ・ソンギュン/チョ・ヨジョン/チェ・ウシク/パク・ソダム 音楽:チョン・ジェイル 撮影:ホン・ギョンピョ 編集:ヤン・ジンモ 製作会社:パルンソンE&A 配給:韓国/CJエンタテインメント 日本/ビターズ・エンド アメリカ/NEON 公開 フランス/2019年5月21日 (カンヌ国際映画祭) 韓国/2019年5月30日 カナダ/2019年9月 (トロント国際映画祭) 日本/2019年12月27日 (限定公開) 2020年1月10日 上映時間:132分 製作国:韓国 言語:韓国語

「社会性」と「娯楽性」のかけ合わせが絶妙

笑いが引きつり、狂おしいほどの憐憫といたたまれなさに包まれる。
132分の間、生き物のように観客の体内で変化する感情。
この映画は、心に寄生する――。
 『パラサイト 半地下の家族』(19)の勢いが止まらない。2019年に行われた第72回カンヌ国際映画祭では、韓国映画初となる最高賞パルムドールを受賞。2020年の第77回ゴールデングローブ賞では、外国語映画賞を獲得。先日行われたばかりの第92回アカデミー賞ノミネート発表では、作品・監督・脚本・編集・美術・国際長編映画賞と、何と6部門で候補となった。世界中の映画賞で約140の受賞、170以上のノミネートを記録しており、世界的に「世紀の傑作」との評価を受けている。
 各国の著名監督も、「観た瞬間から魅了され、観た後も自分のなかで育っていく」(アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ)、「ポン・ジュノは、最高賞パルムドールに値する映画監督だ!」(ギレルモ・デル・トロ)、「とんでもなく面白い、最高のスリラーだ」(エドガー・ライト)、「いま、ストーリーテリングにおいてポン・ジュノに並ぶ者は誰もいない」(アリ・アスター)と絶賛の声を浴びせているそう。(マスコミ用の資料より抜粋)
 全世界興行収入は、1億3,000万ドル超(1月12日現在)。本国韓国では、約50日間で観客動員1,000万人を突破した。アメリカでは、初週の興行収入が外国語映画で過去最高となる驚異のヒットを記録。カンヌ国際映画祭の開催地フランスでも、170万人を超す観客動員を叩き出した。
 日本でも、人気俳優の吉沢亮や斎藤工、細田守監督を起用するなど異例ともいえるプロモーションを実施。一部劇場で先行上映を行って大いに盛り上げまくり、先に観た観客の絶賛評も相まって、一大ブームを生み出している。韓国映画という括りであれば『新感染 ファイナル・エクスプレス』(16)はライト層も含めて大いに話題となったが、本作はよりパワーアップしたヒットの曲線を描いている。
 大いに話題を集めている『パラサイト 半地下の家族』だが、あらすじは至ってシンプルだ。家族4人が失業中で、半地下の住居で暮らすキム一家。彼らの運命は、長男ギウ(チェ・ウシク)が友人ミニョク(パク・ソジュン)の代わりに裕福なパク一家の英語の家庭教師を務めることになったことから大きく動き始める。身分を偽ってパク一家に取り入ったギウは、妹のギジョン(パク・ソダム)を美術の家庭教師として推薦し……。タイトルの通り、貧乏な家族が裕福な家族のParasite(寄生虫)となる物語だ。
 本作は、なぜここまでヒットしたのか? その大きな理由は、「社会性」と「娯楽性」が両立しているところにあるだろう。「貧困」や「格差」をテーマに、現実社会を鋭利に描いた手腕と、予想を裏切り続けるサスペンスフルな展開。そして、コメディからバイオレンス、ヒューマンドラマとジャンルを横断するエンタメ性。「貧乏な家族が、裕福な家庭に入り込む」という設定を聞いた時点で、人々の心は本作に囚われてしまうに違いない(ちなみにこの設定は、ポン・ジュノ監督が大学時代に家庭教師をしていた経験が基になっているそうだ)。
 近年のパルムドール受賞作は、『わたしは、ダニエル・ブレイク』(16)、『ザ・スクエア  思いやりの聖域』(17)、『万引き家族』(18)、『パラサイト 半地下の家族』と貧困を描いた作品が続いているが、前3作に比べて本作は圧倒的に娯楽性が高い。それでいて「軽く」ならないから末恐ろしい限りだ。
 『パラサイト 半地下の家族』は、観る者を選ばない。批評家も観客も関係なく、国や地域すら超えて、あらゆる人間の“興味”を喚起させる――。そしてこれは、ポン・ジュノ監督の得意技でもある。

万人の“興味”を喚起させるデザイナー的思考

 ポン・ジュノ監督といえば、「ポンテール」(ポン・ジュノ+ディテール)と称されるほど緻密に計算された構成が持ち味。それはストーリーにとどまらず、画面の構図や小道具に至るまで細かく“意味”が込められている。監督・脚本はおろか絵コンテも自ら手掛け、観客の目と脳にイメージを刻んでいくスタイルは、デザイナーにも近い(余談だが、彼の父親はグラフィック・デザイナーだそうだ)。
 そしてここもデザイナー的思考だが、先にも述べたように「目に留まる」「興味を引く」センスがずば抜けている。実在の連続殺人事件を脚色した『殺人の追憶』(03)、モンスター映画の新機軸『グエムル-漢江の怪物-』(06)、息子の無実を証明しようとする母を描いた『母なる証明』(09)、壮絶な貧富の差を列車内で表現した『スノーピアサー』(13)、食問題や動物保護に切り込んだ『オクジャ/okja』(17)など、これまでに多くの傑作を手掛けてきたポン・ジュノ監督だが、彼の作品は「かけ合わせ」が絶妙だ。重くなりがちなテーマにとっつきやすいサスペンスやスリラー、或いはホラーの要素を巧妙に織り交ぜ、観客の興味をぐいぐいと引っ張り続ける。
 1969年生まれのポン・ジュノ監督は、『嘆きのピエタ』(12)のキム・ギドク監督や『ハハハ』(10)のホン・サンス監督(二人とも1960年生まれ)、『オールド・ボーイ』(03)のパク・チャヌク監督(1963年生まれ)よりも一つ下の世代。ウェス・アンダーソン監督や河瀬直美監督と同い年だ。ちょうどサブカルチャーが台頭してきた時代でもあり、彼の作品にジャンルレスな魅力、複合的な要素が強いのは、時代の流れも大きかったのではないかと推察される。ちなみに、『哭声/コクソン』(16)のナ・ホンジン監督(1974年生まれ)や、『新感染 ファイナル・エクスプレス』のヨン・サンホ監督(1978年生まれ)など、ポン・ジュノ監督の後輩たちはミックスカルチャー的な傾向がより顕著だ。
 オリジナリティだけでなく、過去の名匠からの影響をうかがわせる「引用」も小気味良い。大きなところでいうと、アルフレッド・ヒッチコック監督の存在だ。「窓から覗き見る」シーンの多用は『裏窓』(54)的で、劇中の映画棚にはヒッチコック監督の作品群が並んでいる。ちょっとした遊び心が感じられる一コマだ。
 様々なジャンルの強みを混合させ、娯楽性と社会性を両立させるアプローチ。画面の隅にコメディの粉末を振りかけるのも、ポン・ジュノ監督が観客の心理を深く理解しているからこそだろう。『パラサイト 半地下の家族』ではこれまで以上にコメディ色を強め、裕福で純粋な家族を失業中の貧乏家族が「騙す」カタルシスを観客に感じさせつつも、中盤以降に急カーブを切り、暗闇に突き落とす。
 「自分よりステータスが低い人たちの物語」と安穏としていたら、いきなり客席の底が抜けたような衝撃性。真っ逆さまに落ちていった先は、這い上がれない“地下”だ。ポン・ジュノ監督は本作でコメディタッチを「装置」として用い、新たな進化を見せつける。

経済的「格差」を、高低差と「上る/下る」で表現

 ポン・ジュノ監督がさらに恐ろしいのは、「映像で理解させる」能力の高さ。彼自身が漫画家を志していた点も大きいかもしれないが、ビジュアル面での「説明力」がすさまじい。『パラサイト 半地下の家族』を例にとって観てみると、本作では2家族の格差が「高低差」で表現されている。裕福な家族は坂の上の豪邸に、貧乏な家族は坂の下の半地下住宅に暮らしている。前者の家には陽光が降り注ぎ、後者の住みかには部分的にしか陽は差さない。本作のプロダクションデザイナー、イ・ハジュンによれば、豪邸のセットを建造する際にも、太陽の位置に重点を置いていたという。
 富者と貧者を高低差で表す手法は演劇など、古来より使われてきたアイデアで、そこまで珍しいものではない。『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(16)でも、人生に絶望した主人公が引きこもる新居を半地下に設定し、経済的・精神的なダウンを表現している。『そして父になる』(13)では、高層マンションと路面の自宅兼店舗で、2家族の違いが示される。だが、ポン・ジュノ監督は高低差を配置するだけにとどまらず、上下動を頻繁に取り入れて「裕福←→貧乏」のステータスの変化をリアルタイムで開示する。観る側が頭で理解していなくとも、視覚で把握できるように設計されているのだ。
 劇中、半地下に暮らす家族は、上に上ると幸運が訪れる。冒頭、Wi-Fiをつなげようと階段を「上がる」シーンから、貧乏な家族の長男が裕福な家の面接に行く際も坂を上る。もっと階段を上がれば家庭教師として採用され、金運もみるみる上昇。だが逆に、「下りる」と運気が下がる。階段を下りても、坂を下っても、登場人物の立場はどんどん苦しくなっていく。同様に、「滑る」「落とす」といった動作も彼らを追い込んでいく。元々この家族は両親が事業に失敗し、長男が大学受験に失敗し……と「落ちる」行為の連続。意図的/偶発的にかかわらず、何かを下に持っていく行為はすべてネガティブな影響を与える。
 さらに「半地下」という「上にも下にも行く可能性がある」位置取りも秀逸。本作は、半地下の窓を背景に、部屋干しされた靴下を切り取ったカットで幕を開け、「光が一部からしか差さない」「光と闇の中間地点にいる」という意味深なイメージを一目で刻み付ける。つまり、この家族にはまだ可能性も、それに伴う危険性もあるということ。その浮遊感が、ドラマにセンセーショナルな起伏をもたらすのだ。成り上がりの物語には、「ミスったら元の生活に戻る」怖さがつきまとうが、言ってしまえば失敗してもゼロに帰るだけ。こちらの家族には、「何か一つでも手順を間違えば今よりひどくなる」恐怖心がつきまとい、サスペンスを存分にあおってくる。
 ここにスイッチを入れるのが、「山水景石」というアイテムだ。金運と学業運をもたらすというこの石を手に入れたことから貧乏一家にはツキが回ってくるが、次第に石の存在が重荷に変わっていく。山水景石が水の中から浮上してくるシーンはちょっとしたホラーで、長男が「この石は僕にへばりついてくる」と語る姿からは、『ジョジョの奇妙な冒険』のごとく「不気味な恐ろしさ」を感じることだろう。
 ちなみに「高低差」も「山水景石」も冒頭数分で登場し、脚本的にも後々に重要な意味を占める「計画」「象徴的」といったキーワードもちりばめられている。家族が「消毒される」シーンもそう。こうした引き金、或いは隠喩を冒頭数分で嫌みなく入れてしまうところがポン・ジュノ監督の卓越したテクニックだ。
 「雨」の演出も見事だ。ポン・ジュノ監督は「水は上から下に流れるもの」と雨のシーンの意図を語っており、劇中に何度か用意されている雨のシーンでは、必ず家族に試練や窮地が訪れる。私たちが雨というものに持っている不穏なイメージが、そのまま物語に採用されているのだ。こうした「歩み寄り」も抜群に上手い。
 批評家層・一般層どちらにも支持されている監督といえばクエンティン・タランティーノ監督が筆頭だろうが、ポン・ジュノ監督は『パラサイト 半地下の家族』でもって、その極致に達した印象だ。ものすごく平たく言ってしまえば、ブロックバスター映画でなくても、普段そこまで映画を観ない人にまで「面白そう」「観たい」と思わせる“魔力”を宿すことができる才人――ポン・ジュノ監督が、映画業界の未来を強くけん引する最重要人物であることは間違いない。

寄生が浮き彫りにする真理――人間の本質は変わらない

 ここまでは『パラサイト 半地下の家族』におけるポン・ジュノ監督の演出の妙について書き連ねてきた。最後に、脚本の魅力について考察していきたい。
 先ほど紹介したように、本作のアイデアはポン・ジュノ監督の家庭教師経験から生まれたものだが、共通項も多い『スノーピアサー』以前から構想は練られていた。最終的な脚本は、およそ3ヶ月半で書き上げられたという(ちなみに撮影期間は77日とのこと)。
 本作が世界的に大ヒット&絶賛を得たのは、これまでに述べてきた「娯楽性と社会性のミックス」もあるだろうが、大前提として純然たる面白さと、共感性があったからこそだろう。特にこの「共感性」においては実に秀逸な仕掛けがなされており、物語が進行するほどに観る者の内で共感性が芽生えてくる構造になっている。どういうことかというと、序盤では観客は裕福な家族と貧乏な家族の「中間」に位置するのだが、その関係性が崩れていくのだ。観客にとって「下に見ていた存在」であった貧乏な家族に“親近感”を覚え、「笑っていた対象」である裕福な家族に対する“羨望”が浮き彫りになる――。つまり我々自身が、「経済」という大きな流れの中に組み込まれているという残酷な真理に気づかされてしまうのだ。
 老いも若きも富者も貧者も登場人物も観客も結局、金というものに踊らされている現実。「運転手の枠に大卒500人が殺到する」という劇中のセリフに象徴されるように、能力があろうがなかろうが、掴めない者は掴めないまま沈んでいくしかない。それは韓国だけの問題では全くなく、近年のパルムドール受賞作がそろって「貧困」を描いているということ、そして本作の各国でのヒット&高評価が、『パラサイト 半地下の家族』が内包するテーマが世界共通の問題であることの、逆説的な証明にもなっている。この「落とし」は実に強烈で、鑑賞後も心にへばりついて離れない。まるで山水景石のように。或いは、消えない“におい”のように苦々しい後味を残す。
 裕福な家庭に取り入り、リッチな生活に「寄生」するようになった貧乏家族。だがそれはあくまでかりそめであり、ある事件によって彼らは「人間の本質」に気づいてしまう。象徴的なのは、父母が交わす会話だ。「(裕福な家族の)奥さんは金持ちなのに純粋だ」と語る父に対して、母は「金持ち『だから』純粋なんだ」と返す。何気なく配置されているセリフだが、ここに本作の真髄が隠されているように思える。
 金を得たところで、身分を偽ったところで、同じにはなれないという事実。彼らはあくまで「寄生」の立場から抜け出すことはできない。半地下の人間は、性根の部分でその場所に染まってしまっているのだ。

「格差」を覆す答えは、どこにあるのか

 決して変わらない、環境が作り上げた人間の本質。
 これはこの家族だけが抱える劣等感ではなく、裕福な家族の中にもある問題だ。こちらの家族では、「英語」という形で表現されている。この家族の妻は、アメリカへの憧れを隠さない。会話の端々に英語を織り交ぜ(それが故に貧乏家族に付け入られるのだが)、「アメリカ製だから安心よ」という理論を展開する。この家族の末っ子がアメリカン・インディアンにハマっている点も実に風刺的だ(ちなみにこの末っ子の服には高確率で英語がプリントされている)。
 会話の端々で英語を挟んでくる裕福家族は私たち観客からすると滑稽なのだが、それがアメリカ人、ひいては白人社会への羨望なのだと考えると複雑な感情に襲われもする。真の意味で「満たされた」人間は、この映画の中に1人もいないのだ。だがその中で「人が人を雇用する」という使役関係が生まれ、雇う側は優越感を得て、雇われる側は自尊心と引き換えに資金を得ている。2家族が形作る歪な関係は、社会に「使われる」私たちそのものではないか。
 本稿の序盤で少し触れたが、『パラサイト 半地下の家族』の中では「計画」という単語も繰り返し使用される。この言葉は、まるで溺れる者が掴む藁のようだ。「計画がある」というマジックワードは貧乏生活がいつか終わるという希望を抱かせ、束の間の夢を見ることを許してくれる。しかし計画に依存すればするほど、思い通りにいかなかったときに彼らの心は脆く崩れてゆく。事業や受験の失敗など、家族の人生は「計画通りにいかない」ことばかりだったからだ。
 ビジョンがなければ成り上がれない、しかし僕たちはどこで間違えたのだろう。彼らと僕たちは、何が違うのだろう――きっとそこに、答えはない。まるで運命づけられていたかのように、富者は栄え、貧者は地面に這いつくばる。寄生しても、両者の力関係は何も変わらない。搾取するようでいて、生かされているだけなのだ。
 闇夜の中、父親が息子に語りかける「絶対にうまくいく計画を知ってるか? 無計画だよ」という言葉は、重く重く我々の心にのしかかる。彼が言うように、諦めること、手放すこと、つまり思考を停止させることが「幸福」なのだろうか? 私たちは今後、「格差」というシステムから抜け出せるときが来るのだろうか? その答えを、本作は提示してくれない。
 『パラサイト 半地下の家族』は、何もないところから生まれ出た作品では決してない。閉塞する現代の背中に寄生して肥大した、負の遺産だ。混迷の時代を正しくとらえた、限りなく“今”の映画。ただ「面白かった」だけでは、済まされない。
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